桐朋女子高等学校音楽科卒業。桐朋学園大学音楽学部卒業。桐朋オーケストラアカデミー教育課程修 了。京都フィルハーモニー室内合奏団に在籍した後、スイス、シオンのティボールヴ ァルガ音楽祭、木野雅之白馬ミュージックキャンプ、草津音楽祭などにて研鑽を積む。第111回県立音楽堂推薦音楽会出演。バイオリンを恵藤久美子、室内楽を木野雅之、マルグリットフランス、藤井一興、三善晃各氏に師事。横浜音楽文化協会、横浜市民広間演奏会、各会員。現在、オーケストラ、室内楽、ソロなど幅広く演奏活動を行うとともに、
バイオリン指導にもあたる。久が原ハーモニー保育園バイオリン講師。
私とバイオリン
【バイオリンとの出会い】
私がバイオリンを始めたのは、小学校に入学してちょうど2ヶ月ほど経ったころ。音楽好きの母が「バイオリンはどこでも弾けるし、仲間とアンサンブルもできて楽しそう」と思って勧めてくれたのだ。バイオリンの木の色がきれいで、なんと言っても「これは馬のしっぽの毛なんだよ」と教えてもらった弓で弦をこすると音がでるのがとても興味深かったのをよく覚えている。
手ほどきをしてくれた最初の先生はまだ現役の音大生で、私にとっては先生というより、
話をなんでも聞いてくれるやさしいお姉さん、という感じだった。共働き家庭だった私にとって、バイオリンを抱えて一人でバスに乗ってバイオリン教室へ通うことは、週一回の
大きなイベントであり、ワクワクするとても楽しみな時間だった。
たいがいの子がそうであるように、レッスンへ行くことは楽しいけれど、練習はというと、、、母に「今日は練習したの?!」と言われてからケースを開けて始めるという毎日だった。
【新たな師との出会い】
そんなのんびりした私のバイオリン生活は、小学5年生の引っ越しとともに大きく様子が変わる事になる。
「引っ越した先でもバイオリン続ける?」と母に聞かれた私は「続けたい」と迷わず答えていた。新しい土地でのレッスン通いはどんな感じなのだろうか、と想像しただけでもワクワクしたし、細々とだがコンスタントに続けて、いつもそばにあったバイオリンがなくなることは考えられなかった。
父と同じ職場の方に紹介していただいた私の新しい先生は、桐朋学園音楽大学でも教えておられる大先生だった。子供とはいえ、初めて先生のお宅へお邪魔した時の空気は、今までのレッスンとはまったく違うことがよくわかった。その帰り道「断られなくてよかった」とつぶやいた母の言葉を聞いて、自分がこれからバイオリンを習うということがどういう事なのか分かった気がした。
先生は「しばらくバイオリンはケースから出さなくていいわよ。1か月後、またいらっしゃい」と私におっしゃった。先生のその言葉は「あなたは何年もバイオリンを弾いてきたのでしょうけど、そのテクニックは忘れましょう。もう一度、1からやり直しましょう」ということだったのだ。それまでそれほど積極的にバイオリンを弾いていたわけではなかったが、バイオリンを禁じられた1か月間は手持ち無沙汰だったことを覚えている。
そして1か月後、私の新しいバイオリンレッスンが始まった。それまでレッスンに付いてこなかった母も、レッスンの日は仕事を早く終え、一緒に来てくれた。先生のレッスンは「1からやり直す」ということば通り、楽器の持ち方から始まり、音程も細かく直された。テキストも小学5年生にとってはずいぶん簡単なものに戻った。それまで練習が苦手で、なんとかレッスンでやりくりしてきた私だが、もうそんなレベルの話ではないことはよくわかっていた。それだけでなく、私は先生に言われたこと一つ一つを全部できるようになりたい、と、今までとは違う気持ちで自分の練習を励むようになった。それは先生のレッスンがいつも熱心だったこともあるし、もう一つは自分のレッスンの前で弾いている同じ門下生の演奏に刺激を受けたからだった。どの子も大人びた感情豊かな曲を弾いていて、「自分はいつあんな曲が弾けるようになるのだろう」とそんな気持ちを持ちながら、自分のレッスンを待っていた。彼らの真似をして、カセットデッキでレッスンを録音して、帰りの車の中でレッスンを聞き直すこともした。客観的に聞いてみると、先生が何を言いたいのかよくわかったし、自分ではできているつもりでも、まだまだ足りていない部分があることがよくわかった。
しばらく基礎練習を主としたレッスンが続いたが、1年後には年に一度ある「おさらい会」で演奏できるところまでやってきた。はじめての「おさらい会」は、私にさらなる大きなパワーを与えてくれた。まず、プログラムには魅力的な曲が並んでいたし、そろそろ自分の番が近づいて来たので舞台の袖へ上がっていくと、今まで聞いたことのない大きなスケールの、釘付けになるような演奏が聞こえてきた。そんな演奏を聞いてしまった後の私は必要以上に緊張し、はじめての「おさらい会」はほろ苦い思い出となってしまった。しかし、彼女の演奏はずっと私の中に残り、バイオリンの魅力を大いに教えてくれたのだった。
【進路】
小学5年生で基礎からやり直し少しずつ進歩していった私は、中学生に上がるころ、
自分の進路についてどうするのか、ある程度決めなければならなかった。
なぜなら、もし桐朋女子高校音楽科を受験するのであれば、実技であるバイオリンはもちろんのこと、試験科目である副科ピアノ、ソルフェージュ、楽典の準備も本格的にしなくてはいけない。桐朋ではなく、ほかの音楽高校を受験するのであれば、準備の仕方も変わってくるし、もう音楽科を受験しないということであれば、バイオリンのレッスンもそこそこに、中学校の友達と同じように普通高校の受験のための勉強に力を入れなければならない。そのころ、バイオリンは私の中でとても大きな比重を占めていた。弾けば弾くほど新しい音楽に出会えることが楽しかったし、とにかくもっと高いレベルで学びたいという気持ちがあった。自分の実力がどうなのかあまり自信もなかったが、先生がそのような話をしてくれるということは自分にも可能性はあるのではないか、という思いから「桐朋へ行きたいです」と先生へ気持ちを伝えた。
それから高校受験までの3年間は、夏に行われる夏期講習の準備、冬にある「おさらい会」に向けて曲を仕上げるという2つの柱のもと、練習の毎日だった。そして、先ほども書いたように桐朋の受験には、バイオリンの試験のほかに様々な試験があるので、一週間のうち半分ほどはそれらのレッスンへ通うという忙しさであった。
夏期講習では、入試の模擬試験が行われ、自分が今どのくらいの実力なのかが明確にわかった。そしてそれぞれの実力に見合ったレッスンを、期間中に数回受けることができた。ソルフェージュのクラスでは、成績順にA~Nまで細かく分かれていることにまず驚き、自分が下から数えたほうが早いクラスだったことにとても焦った。それからの1年間は、ソルフェージュのレッスンから帰ってきたあと、何度も聞き取れなかった個所を自分でピアノを弾きながら復習した。中学3年生の夏期講習で上から4つ目のクラスに入れたことは大きな自信になった。バイオリンの方はと言えば、結果はいつもボーダーラインぎりぎりだった。私はとくに本番に弱く、「普段ならもう少しのびのびと弾けているのに。次こそは!」なんて気持ちでごまかしていたが、中学3年生の夏、高校入試が目の前に迫ってくると、ステージでの演奏が自分の実力であるということを、しっかりと受け止めなければならなかった。
【高校入試】
桐朋の入試では、2曲を演奏することになっていた。毎年11月に試験の課題曲が発表された。ローデのエチュードから、学校が指定したものを1曲。もう1曲は課題にあげられた数曲の中から、自分の選んだコンチェルト(第1楽章か第3楽章)。先生は、私にラロのスペイン交響曲を選んでくださった。名前通りスペイン風のリズム、エキゾティックなメロディがとても魅力的な曲だ。とくに、出だしの力強いモティーフが特徴で、私はすっかりこの曲の虜となり親近感を持った。
ジノ・フランチェスカッティのLPレコードを何度も何度も聞き、彼の明るい音色に憧れて、
2月の入試に向けて練習に励んだ。
年が明けると、2月の入試がもうすぐそこに近づいていた。先生は、その場の雰囲気に慣れるようにと、レッスンの場を先生のご自宅から、試験会場である桐朋学園のキャンパスへ移動してくださった。入試2週間前からは、いよいよあとは本番で実力が発揮できるよう、自分をコントロールして弾くということに重点を置いて、朝から晩まで食事と睡眠の時以外は、ほとんど一日中弾いていた。もう、そうしていないと気持ちが落ち着かない、という感じだったと思う。グッと集中して何かに取り組むことの充実感を知ったのは、この頃かもしれない。
いよいよ入試の1週間がスタートをきった。初日のバイオリン試験当日は、あれほど練習したにもかかわらず、かなり緊張していた。自分の名前が呼ばれて入室すると、それまで先生に何度もレッスンしていただいた会場なのに、ズラッと席に付いている教授陣に圧倒された。あまりの緊張感に押しつぶされそうになったが、弾く前にふと窓の外に目をやると、道路を行き交う車が目に入った。「あぁ、ここにいる私もいつもの私。ここは特別でも何でもない」と急に落ち着いた気持ちになった。ゆっくりおじぎをし「おちついて、おちついて」と自分に言い聞かせた。ピアニストの前奏が始まると私の中に余計な気持ちが消え、自分が好きな「スペイン交響曲」を弾きたい、とそんな気持ちで無我夢中で演奏した。ベルの合図で演奏を終えたとき、私は今までにない充実感を感じた。その時が自分の進路が決まる大事な時だったのだが、そのことを忘れて自分の大切な音楽に夢中になれたことはとても嬉しかった。待合室で待っていてくれた母のもとへもどり、心地よい疲れ、やり切ったという爽快感にひたっていると、先生が休憩時間になったのか、私のもとへ来てくださった。いつも厳しい先生が「よかったわよ!」と言ってくださり、本当に一生懸命練習した日々、あの空間でのびのび演奏できたことの嬉しさが込み上げてきた。
初日のバイオリンの試験でなんとか実力を発揮できた私は、次の日から続くピアノ、ソルフェージュ、楽典の試験も全力でがんばろう、と新たな勇気が湧いてきた。一日、一日落ち着いてていねいに試験に取り組んだ私は、晴れて友達と一緒に笑顔で中学校の卒業式を迎えることができた。
【桐朋学園での生活】
当時の桐朋女子高校音楽科は、1学年約100名の生徒数だった。3クラスに分かれており、弦楽器を専攻している生徒は30名ほどだった。桐朋学園は全国に音楽教室がある。切磋琢磨し合格を決めたみんなが全国から仙川にあるキャンパスに集まっていた。多くの子が幼い頃から高いレベルの音楽教育を受けてきていた。小学五年生で1からやり直して桐朋に入った私は、その中では異色だったろう。
今までは歩いて5分ほどで学校に着いていたのに、高校は自宅から片道2時間という遠さだった。あんなに入りたかった学校だったのに、何もかもが初めてで、周りの同級生たちの雰囲気にもなかなか馴染めず、高校1年生の1年間は思ったようにバイオリンに打ち込むことができなかった。練習しなくちゃ、という気持ちはあるのに、いざ練習を始めても集中できず、すぐやめてしまう。そんな状態であれば、レッスンでこっぴどく先生に叱られるのは分かっているにもかかわらず、音楽に集中することができなかった。「いつまでもそんなことだったらみんなに置いていかれるわよ」とほぼ毎回先生に言われていた。ある時、学校で通りすがりに「桐朋に入ることが目的になっている人っているよね。でも、ここってそんな学校じゃないよね」というような言葉が耳に入ってきた。私に言っているわけではなかったが、私には私への言葉に聞こえた。「本当にそうだ。私、このままじゃいけない」と、その言葉は自分を見直す良いきっかけとなった。
ある実技試験日のこと。自分の演奏の順が来るまで、3,4人が狭い控室で課題曲であるバッハをさらっていた。自分の音がよく聞こえないまま、誰もが試験でベストが尽くせるようにと、必死になってさらっていた。
そんな中、私の演奏を聞いていた友人が「私、綾ちゃんのバッハ好きだよ」と声を掛けてくれた。彼女とはクラスも違うし、それほどしゃべったこともなかった。しかも彼女も、もうすぐ試験で弾くというのに、そんなふうに私に声を掛けてくれて、私はとても嬉しく、同時にすごく自信をもらった。相変わらず片道2時間の通学は大変で、どうにかならないものか、と悩みの種だった。その後、幸い通学路が同じ友人を見つけてからは、通学も楽しくなった。ドイツ育ちの彼女から聞く音楽の話、レッスンへの向き合い方はとても興味深かった。高校に入ってから、漠然としていた音楽に対する気持ちがかなり前向きになったのは彼女のおかげだった。
大学生になってから楽しかったのは室内楽の授業やレッスンだ。お互いのパートに耳を傾け、一緒にハーモニーを作り上げる。「作曲家がこの曲を書いたときは、どんな時代だったのだろう」とか「このハーモニーきれいだね」なんて話しながら同級生と一緒に音楽を奏でることはとても楽しいものだった。そうして作り上げた音楽を、今度は著名な音楽家にレッスンしてもらう。そうすると、今度は先生方のアドバイスによって、また違う世界が見えてくる。音楽のスケールの大きさをたくさん学んだ。室内楽クラスでは、ブラームスやシューマンのヴィオラパートを担当してアンサンブルの基礎も学んだし、内声パートの楽しさ、素晴らしさに気づいた。毎年、何回か開かれる海外からの著名な先生方の公開レッスンは、曲へのアプローチがユニークでとても勉強になった。
【オーケストラへ就職】
今では様子もだいぶ違うかもしれないが、当時は音楽大学を卒業しても研究生として大学に残ったり、海外へ渡りさらに研鑽を積む友人が多かった。でも、私は「すぐに就職したい」という思いが強く、大学の求人欄に貼ってあった「バイオリン奏者 1名募集」という張り紙を見つけると、オーディションを受けたい旨を先生に伝え、さっそく課題曲であるモーツァルトのコンチェルトの練習に励んだ。充実した大学生活の波に乗れたのか、オーディションを合格できた私は、大学を卒業してすぐに京都へ引っ越し、4月からはオーケストラの一員として働き始めることになった。
社会人としての音楽生活は、次々控えている演奏会のため、譜読みを次々にこなさなければならなかった。社会人1年目の私にとっては、すべての曲が初めてだったため、それらを正確に弾きこなせるよう練習することが毎日の日課となった。そして、社会人として初めての夏休み、わりと長く休むことができると知った私は、学生時代一緒に通学した友人が留学しているスイスを訪ねてみる計画を立てた。それは、私にとってはじめての海外旅行だった。彼女が受講するというミュージックセミナーの聴講も兼ねて。その時の体験が、新たな私のバイオリン人生の道の開いてくれたのだった。
【ヨーロッパへの旅】
スイス、ローザンヌに近い小さな村シオンは、向こうになだらかな丘が広がる、まさにアルプスの少女ハイジが住んでいるような素敵な村だった。私は、早速友人のレッスンを聴講させてもらった。当時、巨匠として存在感を表していたその先生のクラスには、ロシアから両親とともに学びに来ていた少女もいたし、一年中彼のもとで学んでいる大学生など幅広い受講生がいて、レッスン内容も多彩でとても興味深かった。バイオリンの先生がもう一人いらっしゃることを知った私は、その先生のレッスンも聴講させてもらうことにした。
そのもう一人の先生、モーグ先生はドイツのフライブルク大学で教えておられる先生だった。先生のクラスでは、受講生のほとんどがモーツァルトのバイオリンコンチェルトの第2楽章を弾いていた。それまで、私もモーツァルトのコンチェルトを何曲か学んでいたが、どの曲も第1、3楽章を練習し、なぜか第2楽章は弾いたことがなかった。第2楽章は左手のテクニックはそれほど難しくない。しかし、シンプルなように聞こえて、実はまったく単純でないハーモニーであること。より立体的な生き生きとした音楽を表現するためには弓を持っている右手のコントロールがとても重要であること。柔軟に自分の思い描いた音楽を表現できるよう、その引き出しをたくさん作ることがバイオリニストにとって本当に大切だということ。
モーグ先生は正確さはもちろんのこと、ここの和声は?どんなイメージをもっているのか?音符一つ一つどれも違う色のはず、、、といろいろな言葉を受講生に投げかけながら、ていねいで魅力的なレッスンをいつもされていた。私自身は聴講のみで指導は受けなかったが、それでもたいへん有意義な数日間を過ごすことができた。
帰国後、仕事に戻った私は、毎日の仕事をこなしつつ、来年の夏は私もモーグ先生のレッスンを受けよう、と決めた。受講する曲はシューベルトの「幻想曲ハ長調」。以前聴きに行ったリサイタルであまりの美しさに心を打たれ、自分もこの曲をいつか弾いてみたいと思っていたのだ。仕事の合間に時間を見つけて、先生だったらどんなことをアドバイスしてくれるだろうか、と考えながら練習を重ねた。
そして1年後。2回目の訪問だったので、だいぶスムーズにシオンへたどり着くことができた。そしてレッスン受講。学生時代、自分のレッスンには、ふだんはピアニストが付いてくれることがなかったが、モーグ先生の夏季セミナーでは、初回のレッスンからピアニストが付いてくれることはとても嬉しかった。シューベルトといえば歌曲の作品が多く、揺れ動くハーモニーがとても美しいのと同時に、非常に複雑な面も持っている。先生からは、主に右手の使い方、自分の作りたい音楽をきちんとかたちにすることを学んだ。シューベルトの音楽観というよりも、バイオリンの基本的なコントロールの仕方を学んだような感じだった。
帰りの飛行機の中で、私は自分のこれからのことを考えていた。自分のポストがあり、自分の音を必要とされている生活に満足していたが、それと同時に多くの同級生がそうしているように、わたしももう一度学ぶ時間を持って、自分の音楽を磨くことは、その先に続く音楽人生をより豊かにしてくれるのではないか、と考えていた。毎日のリハーサルは、モーグ先生に求められたような音楽性を追求するような時間とは言いがたかった。自分自身は先生の言葉を意識しながら弾いていたとしても、周りのメンバーのことが気になったりで、少しずつストレスが溜まるようになってしまった。
「働きながらでも学ぶことはできるのではないか?」「せっかく掴んだポストを手放すことができるかな?」散々悩み、私は小学5月年生からお世話になっている恩師に相談することにした。先生は「そうねぇ。桐朋学園が富山に新しくオーケストラアカデミーという機関を作ったのよ。この前そこへ指導に行ったのだけど、なかなかいい環境だったわ。そこへ行ってみるのはどうかしら?」とアドバイスを下さった。私は2年間ほどの社会人生活をいったん終え、もう一度学生に戻ることに決めた。
【桐朋オーケストラアカデミー】
桐朋オーケストラアカデミーでは、音楽大学を卒業した生徒が多く学んでいた。もう少し自分の技術を高めたい、その上で社会に出ていきたいと考える人たちが多かった。1年間が3つのカリキュラムに分かれており、オーケストラを学ぶプログラム、著名な先生方を招いての室内楽レッスンなど、充実した環境の中で音楽をしっかりと学ぶ時間を持つことができた。
さらに、ヨーロッパから毎年、音大生が留学しに来ていた。「なんで本場のヨーロッパからわざわざ富山に来るんだろうね」と友人たちと不思議がっていたが、彼らと室内楽を組んで弾く時間はとても楽しかったし、勉強になった。ちょっとした間や、機微な音色の変化を隣で感じ取りながら弾くことは、先生方にアドバイスを受けることとはまた違う、ためになるものだった。練習室も充実しておており、寮生活だったため、私はモーグ先生に注意された基本的な様々なことをしっかり身に着けたくて、朝から練習室にこもって鏡の前で先生の言葉を思い出しながら練習する時間も持てた。
オーケストラアカデミーという名前通り、ここではオーケストラメンバーになるための実践的な授業も多く、実際一緒に学んでいたメンバーが、倍率何10倍というようなオーディションを勝ち取っていたし、東京のオーケストラへエキストラの仕事のために富山から夜行バスに乗って多くのメンバーがしょっちゅう出かけていた。私も何度かオーケストラのオーディションをトライした。1次を通過するときもあれば、1次すら通らないこともあった。そんな日々が続いた私は、もう少し視野を広げて自分のバイオリンを生かす場所を探そうと、そんな気持ちになった。
そんなある時「舞台音楽の演奏者募集」という情報を見つけた。早速応募しオーディションまでこぎ着けた。オーディションでは、自分の用意した5分程度の曲を演奏し、そのあとの面接では、これまでどのような音楽人生を歩んできたのか、どのような音楽が好きなのか、舞台についての知識などを聞かれた。私には小さな空間が合っているのか、この時はオーケストラのオーディションに比べてかなり落ち着いて臨むことができた。舞台音楽の演奏者にはなれなかったが、この時の面接官が私のことを気に留めてくださり、後日連絡をくださった。
【ポップスバイオリン】
私に電話を掛けてくれた彼は、ご自身もヴィオラを弾く、ポップスミュージックのアレンジャーであった。彼は、私をポップスのレコーディングの仕事に誘ってくださった。クラシック音楽にこだわらず自分のバイオリンを生かして働いていきたいと思っていたので、私はとても嬉しかったし、チャンスを逃さないようにと、一方で緊張もしていた。
電話で言われた時間に、指定されたスタジオへ行ってみると、譜面台にはその日レコーディングするアーティストの曲の楽譜が置いてあった。何もかもが初めての私は、慣れた感じで耳にイヤホンをし、これから始まるレコーディングのために練習している隣の方に使い方を聞いて、ドキドキしながらスタンバイした。クラシック音楽とは違うスピード感、しかもそれをバイオリンセクションがピッタリと揃ってレコーディングするという臨場感に私は魅了された。その場でパッと曲をつかみ、限られた時間の中でミスなく仕上げなければならないレコーディングの仕事はかなり緊張感が伴っていた。かと言って、慎重になりすぎては音楽に乗れない。先輩に教えてもらったアーティストの曲を聞きながら、ピッタリと音楽に乗ってバイオリンパートを弾く練習を家でずいぶんした。
スタジオミュージシャンとして少しずつ弾く機会を与えてもらえるようになり、私も充実した日々を送っていた。しかしそれだけでは不安を感じていた私に、ある友人が東京にある音楽院でバイオリンの講師を探している、と教えてくれた。講師としてその音楽院で働き始めると、そこには同じ桐朋学園出身の先輩も何人か指導にあたっており、音楽院全体に活気があったので、生徒を持つことが初めてであった私も、比較的スムーズにその仕事に就くことができた。生徒にバイオリンを教えることと並行して、スタジオミュージシャン、オーケストラや室内楽で演奏する仕事をこなしていた私は毎日が忙しかった。
そんなある日、尊敬していたスタジオミュージシャンの方が私に「もしこのままスタジオで弾いていきたいならクラシック音楽から離れたほうがいいかもしれないね」という話をされた。それは、決して器用なタイプではない私のことを考えてのアドバイスであった。確かにバイオリンを弾くことは一緒でも、スタジオで弾く時とクラシック音楽を弾く時とでは音の出し方もグルーヴ感もまったく違った。これには相当悩んでしまった。ノリのよいポップスミュージックの仕事に携われることはとてもやりがいがあったけれど、小さいころから慣れ親しんできたクラシック音楽から離れることを想像したら、「とてもじゃないけれどそんなことはできない」という気持ちになってしまった。器用に弾き分けができればよかったけれど、私はクラシック音楽を弾いていきたいという気持ちのほうが強かった。悩んだあげく、結局クラシックの道で頑張ろうという決断に至った。
【音楽院のバイオリン講師として】
音楽院での生徒指導は、楽しく充実したものだった。指導にあたって、どの子も自分のペースでバイオリンを楽しんで弾き続けてもらえるよう工夫し、その子に合ったテキストを選んだ。やる気のある子には、どんどん高度なテキストを与え、常にわかりやすい言葉で指導することを意識した。そうすると生徒から毎回、レッスンで反応があったのでとてもやりがいのある仕事だった。最初はどちらかと言えば、演奏の仕事の片手間的な感じで教える仕事を始めた私だったが、いつしか週に4日教えるようになっていた。
学院内では毎年コンクールが開かれていた。参加した生徒は何かしら賞をもらえたが、コンクールというだけあり、高く評価された生徒は優秀賞、奨励賞などの賞をもらえるのだった。学院内のバイオリン講師が審査員として生徒たちの演奏を評価し点数を付ける。演奏においてよかったこと、気を付けたらもっと良くなるポイントなどコメントも添えてもらえるのだった。いろいろな先生からコメントをもらえることは生徒にはとても良いことだった。そしてそれは、講師が自分の指導を見直せるとてもありがたいシステムでもあった。生徒がまだ足りないテクニック、その子の持っている個性を改めて知ることができた。そして、来年のコンクールで、より個性的かつ魅力的な音楽を発表できるためには、難しいテクニックをいかに、身に着けてもらえるか。その子に合わせた指導をプログラミングし、一緒に歩んでいくような感じに、私はとてもやりがいを感じたのだった。10年間の音楽院講師生活で、私は音楽を教えることのすばらしさ、楽しさを教えてもらった。
【地域に根付いた音楽教室を目指して】
結婚を機に、多摩区西生田に住むことになった私は、ぜひこの地でもバイオリンを多くの人に楽しんでもらいたい、バイオリンに興味のある子に、バイオリンの魅力を教えてあげたいという気持ちから、自宅でバイオリン教室をひらくことに決めた。生徒は幼稚園生から大人まで幅広い年齢層の方が習いに来てくれている。私が大切にしているのは、まずしっかりバイオリンを弾けるための正確な技術を身に着けること、自分で感じてバイオリンを弾いてもらいたいということ,ずっと続けてもらえるよう指導をするということ。そして、モーグ先生のレッスンのように、曲がある程度弾けるようになってきたらピアノパートを一緒に弾いて和声的な響きを作り出し音楽をより立体的に感じられるように導いてあげること。
「ジュニアオーケストラで演奏した運命の第1楽章を今度は全楽章弾きたくなったので、
もっとジュニアオーケストラを続けることにしました」とか、「大学に入ってオーケストラ部に入ろうと思います」という言葉を聞いたとき、私は本当にうれしい気持ちになる。また同じように、最初の頃はお母さんからなかなか離れられなかった子が、何回目かのレッスンで、幼稚園の出来事を嬉しそうに話してくれるようになったり、大人の方が「この曲を弾きたいんです」といらっしゃって一緒に演奏する、というのも嬉しい。
バイオリンに興味のあるみなさん、いつでも西生田バイオリン教室へお気軽にお越しください。お待ちしています!